むしろ高校にはない集中した空気がある。同時に生徒の選別に耐えうる良質の講義、来て楽しくなるような講義を予備校側も常に提供しなければ、口コミやネットで批判が掲載され生徒にソッポを向かれてしまう。見せかけのパフォーマンスや解法のテクニックだけでは通じなくなってきている。予備校は常に生徒のナビゲーターとして何を望んでいるかを予測し、対応し、要求に応えていかなければならない。解法のスキルを提供するのは当然であり「この講師についてゆこう」という人材であることも同時に求められている。「努力しているんだ」と、露骨に言ったり、見せたりするのは今の生徒には敬遠される。「根性論」の時代ではないのである。大学に受かること自体、私立大学の半分が定員割れの相次ぐ現在ではそんなに困難なことではない。
「受験知」の学力差は、小学生のうちから一段と開くに違いない。そのため、中学受験をする小学生は、受験に関しては(中学、高校、大学を含める)、現在よりもかなり有利になることは否定できない。総合学習の時間をどのように活用するかによって、教育改革が成功するかどうかが決まるといっても過言ではない。中学受験をする子どもと、そうでない子どもの学力差が開くことを考えると、学校スリム化によって、今以上に「できる子」と「できない子」の差が大きくなり、一層の学力の二極分化が起きる可能性があることを、指摘しておく。また公立の中・高一貫教育校を設立する動きが出ているが、これはさらに中学受験熱を高めるに違いない。小学生の学力差をどうするかという問題が、完全学校週五日制の時代に急浮上するものと思われる。
古典の勉強について説明します。古典には古文と漢文がありますが、漢文の方が圧倒的にマスターするのに手間がかかりません。漢文独特のルールと時代背景を知り、後は問題演習を重ねていけば、たいていは解けるようになります。それに対して、古文では、「文法」を完璧に暗記しておかないと、大失点を食らう可能性があります。たまに、「古文も日本語なのだから、よく読めば理解できる」などと言う人がいますが、大間違いです。そのような邪教(?)を信じてしまうと、古文の世界では完全な迷子になってしまいます。はっきり申し上げておきましよう。古文や漢文を勉強するときは、日本語だと思ってはいけません。「外国語の学習だ」と割り切るのです。現代文の知識だけで解けるような問題を、出題者が古文として出題することはまずありえません。古文を現代文的に解釈してしまうと、出題者の仕掛けた罠に思いっきりはまってしまうことになるのです。